2009年4月16日木曜日

多くを聞いて広くを見る。

20代の頃、パリのノートルダム大聖堂にノエルのミサを観に行きましたが、その巨大建造物に「すげぇわ~」とただ見上げるばかり。
なんだかゴシックな柱に灯してあるろうそくの周りをコウモリが飛んじゃったりしていて、筆舌に尽くしがたい緊張感が堂内に張り詰める、というかのしかかると言うか。
無神論者の自分の心のなかに、理屈で説明できない畏怖の念が込み上げてくるのを苦々しいやらほっとするやら受け入れたりして。
「いや~、キリスト教すげ~わ」と。
でも、20数年ぶりに東大寺の南大門見たら、「日本もすげ~!」と、”彼らの聖母”以来、心の片隅にあった、これまた理屈にならないコンプレックスの様なものが吹き飛びました。
なんつーか、空間も時間もでか過ぎて写真撮る気も吹っ飛びました。そんなわけで、東大寺、殆ど写真撮ってません。

脇侍のこのお二方も精緻な造形が素晴らしいのですが、個人的にはやはり南大門の左右で睨みを効かせる阿形・吽形像の造形がなんとも荒々しくて惚れ惚れしてしまいます。
網越しに見るしか術が無いので視力の乏しい僕には物足りないのですが、仕方が無いですね。年に3日程度で良いので、そして柵を設けて近寄れなくするなどの措置をとった上で良いので、金網越しでなく、一度でよいので直接見てみたい、と切に感じました。
東大寺はどちらかと言うと非常に落ち着いた、モノトーンの様な色彩だったのに対して、春日大社は明るい緑に囲まれた朱色の建物がなんとも雅な雰囲気でした。
いや、ほんと修学旅行で来た事あるのかね?俺。
法隆寺の回廊の記憶は卒業アルバムの写真の記憶と共に一気によみがえりましたが、春日大社、全く思い出せません。僕の当時の好奇心は一体どこに向かっていたのでしょうか?
パンチドランカーの様なキラッキラした黒々とした鹿の瞳にカメラを構える僕の姿がはっきりと映りこんでいます。
鹿、よくよく見ると巨大なねずみのようにも見えてきて、それほど愛らしい生き物でもないような気がしてきちゃいました。

0 件のコメント: